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三日月に眠る

三日月on
「わたしたちは、三日月の配下」






神庭旭春はひょんな事から紗弥という女性と知り合う。
彼女は将来を期待されたハープ奏者だったが、交通事故に遭って以来記憶があやふやになり、ハープにも触れなくなってしまったという。
日をおかずして旭春は、仕事の関係者であり毒草園の顧客でもある来栖祐馬と、紗弥との仲介をつとめる。
紗弥はかつて祐馬の恋人であり、祐馬の妹の万琴に ハープを教えていた。しかし紗弥は、祐馬も万琴のこともまったく覚えていなかった。
「あの方」のためにハープを弾いていた紗弥。
光に当たれず人形のような容姿をした万琴。
自殺した万琴の母親。
事件の裏で暗躍する毒草園の主人・佐伯七生 と「伯爵」。
旭春のあずかり知らぬところで、何者かの手による命のゲームが確実に進んでいく……

「猫と琥珀と毒草園」シリーズ第五弾。

B6サイズ/上下巻各96ページ/インクジェット印刷/900円(セット価格・分冊不可)
第2版 B6サイズ/186ページ/オンデマンド印刷/900円


<続きは本文の冒頭です>


0

 闇を照らしていたのは、細い三日月。
 白銀の輝きは冷酷で、夜空を切りつけたような形が鋭利な刃をも連想させる。
 だが自分は、天を見上げていたわけではない。
 白と黒の市松模様を描く床の素材は、凪いだ水面を思わせるほどに磨きこまれた大理石。自分は、己の足元に映る月を見ていたのだ。
 そしてその横に倒れているのは、等身大の女性像。
 白亜の石像は、自分の知人をモデルに造られているらしい。緻密な彫りは写実性に富み、生身の人間が横たわっているような錯覚を覚えてしまう。
 だが怯えることはない。
 これは、単なる石の塊。自分で立ちあがることもできない、ただの置物なのだ。恐れる理由はどこにもない。たとえこれが彼女自身だとしても、その目に光が宿ることはないだろう。
 そう。彼女はすでに死んでいるはずなのだから。
「これは意外な展開だね」
 闇に響いたのは、笑みを含んだ男性の声。頭上から降ってきた声に驚きはしたものの、体をすくませることはできなかった。
「我々のあずかり知らぬところで、勝手に駒が動くとは。ずいぶんと珍しいことが起きたものだ。そうは思わないかね?」
「おまえの軽口につきあうつもりはない」
 切り返す女性の声も、やはり天から聞こえてきた。三日月が支配する夜空は星もなく、深い闇だけが広がっている。もとより、人の姿があるはずもない場所。だが幻聴だとは思わなかった。
 姿は見えずとも、彼らはいる。自分を間に挟んで対峙する彼らの気配を感じていた。
「手駒の不始末を贖う気があるか否か。私が聞きたいのはそれだけだ」
 女性らしからぬ言葉遣いと、押さえた抑揚。自分の前方にいるだろう女は、月光よりも冷ややかな声で男を責めている。
「責任を放棄するつもりはないよ。君のことだ。流された血は、血で洗うというのだろう? 君の望みを叶えるのは簡単だ。だがね、それで終わりにしてしまうのは、あまりにつまらないと思ってね」
 声とともに背後から響いてくるのは、指先で机でも叩くような音。一定の間隔を保って放たれ続けるその音は小さく、だが確実に女の耳に届いているはずだ。
 女の答えは聞こえない。
 かわりに、あたりの気温が下がったような気がした。肌に痛みを覚えるほどの冷気は、女が男にむける殺意によるものか。おそらく彼女は、平然と人の命を奪えるような女性なのだろう。根拠もなく連想したのは則天武后だ。すべての権力を手に入れるために、己が生んだ子供であっても粛清の対象とした女帝。
 きらびやかな衣装を纏って玉座につく彼女は、その指先ひとつで強大な軍を意のままに動かすことができる。いま自分の前にいるのは、そんな女性であるはずだ。
「もう一度、機会を与えてやろうじゃないか。彼らはきっと、我々を楽しませてくれるだろう」
「くだらない。おなじ駒で、おなじ勝負をくり返しても結果は見えている」
「おや。自分の駒が負けると、決めつけているのかい? 君にしてはずいぶんと弱気なことだ」
 驚いたように告げる男の声は、どこか芝居がかった響きが耳に残る。親しげに話しかけながらも、彼は女を挑発しているのだ。
「偶然が重なって起きた珍しい局面だ。おなじ展開を望んでも、わずかな差異が生じる可能性は大きい。それがまったく別の展開を生むかもしれない」
 言葉を重ねながらも、男は指を動かし続ける。足元に響く振動は、メトロノームのように正確だ。
 市松模様の床は広く、その果ては見えない。考えてみれば奇妙な空間だ。柱や壁もなく、頭上には夜空が広がっているばかり。
 周囲にはいくつかの人影が見えたが、微動だにしないそれらは石像にすぎないのだろう。等身大の像は精密で、それぞれに個性的な顔つきをしている。あえて分類するならば、それは石像の色と向きだ。床同様、白亜と漆黒に塗り分けられた彼らは敵対するように向かいあっている。似たような像だというのに、決して肩を並べることはできないのだ。
 そんな彼らを哀れみかけて、気づいた。
 おなじようにこの場に立ち、身動きすることもできない自分もまた、石像のひとつにすぎないのではないか?
 だが疑問を口に出すことも、誰かに問いかけることも叶わない。
「では、駒を足してみよう」
 女の返答を待つことに飽きたのか、男は言葉とともに指を鳴らした。
 同時に自分の前に、あたらしい石像が現れる。
 それは若い男の像で、整った顔だちが目についた。特異なのはその色だ。白でも黒でもなく、濁りを知らぬ透明。三日月の光を反射させて、それ自身が淡く輝いているように見える。
 しかし宝石と比較するには硬度が足りない。わずかにでも衝撃を受ければ、もろく崩れる。ガラスのはかなさを感じさせる像だった。
「それは、捨て駒にしても弱すぎる」
 自分とおなじ感想を抱いたのだろう。女が短く吐き捨てた。しかし男は動じない。
「たしかに非力な駒だ。同時に、興味深い駒でもある。知らないとは言わせないよ。君だって、彼の側に小鳩を飛びまわらせているじゃないか」
 大げさに肩でもすくめているのだろう。大根役者のふりをするのが男の好みであるらしい。
「彼自身には我々を楽しませる力はない。だが彼は、より強力な駒を盤にあげる力を持っているのだよ。まだ若輩のくせに傲慢で、他人の手のひらで踊ることを毛嫌いする男を、だ。おそらく、すぐに我々の意図に気づくだろう。そのうえで、あの男はどんな行動を選択するのだろうね」
 喉を鳴らすように、男が笑う。低く響くその声にも女は答えない。しかし肌を刺すような緊迫感は消えていた。男が出した条件に、彼女も興味を抱いたらしい。そのことに、男も気づいているはずだ。
「退屈しているのは君だけじゃない。珍しい玩具は、みなで楽しもうじゃないか」
「……では、その駒の扱いを決めなければ」
 たたみかけての呼びかけに、ようやく女が同意を示す。女が言う『駒』は、男が持ちだした若い男のことだと思っていた。だが睨めつけるような視線を感じて、それが間違いであることを知った。
「おや、君も聞いていたのかい?」
 問いかけられているのは自分なのだ。市松模様の床は、ゲームの盤。自分もまた、彼らの手駒のひとつに過ぎない。なんの感慨もなく、そう悟った。
「君だけがすべてを知っているのは、不公平だね。なに、記憶を失っても、君の資質は変わらない。心配はいらないよ。君は自分の望みを叶えることだけを考えていればいい。その行動が、我々を楽しませてくれるのだから」
 優しげな口調は、まるで幼子をあやす親のよう。言葉とともに見えない手が自分に伸びてくる気配を感じていた。
 だが自分はただの石像。逃げだすことも、拒絶の叫びをあげることもできはしない。
 耳元に響いたのは、鳥の羽音。天に飛び立つ真白い鳥の姿を見たのは一瞬だった。睡魔にも似た力に襲われて、自分の意識は深い闇に沈められた。



1

 覚えているのは、口内に広がる鉄の味。生暖かい液体が皮膚を濡らす感触が不愉快だった。
 ……一体何が起きたのだろう。
 自分の置かれた状況が理解できないまま、ぼんやりと考える。かすれた視界を覆っているのは緑の雑草。よく見かける草のようだが、花芽も持たない状態では、その名を思いだすことは難しい。密集して生える草は背が高く、地面に横たわる自分の体を包みこんでいるようだ。
 ……では、目の前にあるのは自分の腕か。
 血と泥に染まった腕は汚らしくて、うち捨てられた人形を連想させる。それが自分の体の一部だとは思えなかった。だがぴくりと震えた指先が、自分の認識違いを責めていた。
 腕を引き寄せようと、力をこめる。
 全身に激痛が走り抜けたのはその瞬間。悲鳴をあげる余裕はなく、ただ息を止めて耐えることしかできなかった。腕も足も言うことを聞かず、全身の骨が砕けているかのよう。肌を濡らしているのは自分の血だ。口内を満たす液体も、また。
 救いを求めて、無意識のうちに拳を握りしめていた。藁のかわりに掴んだのは雑草の茎だ。しかし茎は簡単に引きちぎれて、すがることもできない。
 ボロ布と化した自分の体。死という言葉が脳裏をかすめて、恐怖に気が遠のきかけた。意識を手放せば、この体はすぐに活動を停止するだろう。しかしこんな無様な死に方が許されるはずがない。
 植物を握りしめたままの拳に力をこめた。抗うように襲ってきてのは、鋭い痛み。だがこの痛みは、自分が生きている証なのだ。
 顔を歪めながらも、きつく拳を握りしめる。その内側で滲みだしてきた液体は、植物の茎に含まれていたものか。徐々に形をかえる茎の感触を知覚できるのは幸いだった。ともすれば痛みに飲まれそうになる意識をつなぎ止めようと、手のひらに神経を集中させる。
 ほんの少しだけ痛みが弱まったのは、気のせいかもしれない。だが雑草を踏みつけながら近づいてくる足音は幻聴ではないはずだ。
 すでに自分の位置を把握しているのだろう。一歩進むたびに、その音が大きくなる。そして音が響くたび、自分の体に緊張が走る。
 助けが来たとは思わなかった。
 血にまみれた自分を視界に捕らえているだろうに、その歩みに焦りはなく、美しい庭園に遊んでいるかのよう。否。たしかに相手は景色を愛でている。散りかけた自分という花を観察しているのだ。
 頭上まで迫った足音が、唐突に途絶えた。
 自分の生死をたしかめているような冷酷な視線。その声が聞こえることも、体に触れられることもなかった。相手は無言で立ちつくし、自分の生が途切れる瞬間を待っている。
 惨めに横たわる自分を、心の内であざ笑っているのだ。そう気づいて、屈辱に奥歯を噛みしめる。
 激痛をこらえて顔をあげた。
 目を刺したのは、まばゆい日の光。強いひざしに視力を奪われ、濃い影となったシルエットしか分からない。
 だが、その姿は。

「香久夜」
 声とともに肩を揺すられて、加賀見紗弥は現実へと引き戻された。夢を見ていたのだとすぐに悟る。それでも感情を切り替えることはできなかった。
 肩に添えられていた手を振り払って、自分自身をを抱きしめる。体を強ばらせたのは、激痛に耐えるため。しかし一瞬前まで自分を襲っていたはずの痛みが、いまはない。
 左の手のひらを開いてみたのは、握りつぶしていた植物の残がいを探すため。潰れた茎の内側から滲む液体の感触をはっきりと覚えているのに、手の中は空っぽだった。その結果が信じられず、手のひらをみつめてしまう。火傷にも似た傷跡の残る手だ。だがあのときのように血と泥で汚れているわけではない。
「また夢を見ていたのね」
 冷めた声に呼ばれて顔をあげる。ソファに座る紗弥の前に立っていたのはパンツスーツ姿の女性だ。その服装や表情には隙がなく、硬質な美貌が近寄りがたい雰囲気を醸しだしている。いかにも有能な秘書のようだが、彼女の肩書きは新人モデルのマネージャーだ。
 名前は北条泉。
 二ヶ月も一緒に暮らしている同居人の名を、いまさらのように思いだして紗弥は体の緊張を解いた。
 そう、あれは夢。自分の脳が作りだした幻覚にすぎないのだ。
 無意識のうちに吐息をもらしていると、鳥の羽ばたく音が耳に響いてきた。かすかな感触を覚えて、左肩に視線を移す。そこに止まっていたのは白い小鳩だ。人に慣れた鳩は、指を近づけただけで肩から飛び移ってくる。室内で気ままに過ごす鳩は三羽。この居間は、彼らの住居でもあるのだ。
 指に止まっていることにも飽きたのだろう。羽根を広げて、小鳩が宙を渡ってゆく。その姿を目で追いかけて、紗弥は壁のパネルに視線を止めた。それは白いドレスを身に纏い、グランドハープを奏でる女の写真だ。
 パネルの横にはガラス製の棚が置かれて、いくつものトロフィーが飾られている。どれも写真の女がコンクールで獲得した記念品だ。刻みこまれた受賞者の名前は加賀見紗弥。
 自分がハープ奏者として、それらのコンクールに出場した記憶は残っている。しかし二ヶ月前のあの日より過去のことはあやふやで、それが自分自身の経験だという実感がない。そしていまの自分は香久夜という名の新人モデルだ。
「あなたのコマーシャル、ずいぶん評判が良いらしいわ」
 紗弥の意識が現実に戻りつつあることを察したのだろう。泉はそう告げながら、テレビの本体に手を伸ばしていた。電源が切ってあるのは、テレビを見る機会が少ないからだ。騒がしいバラエティーや現実感のないドラマ、自分とは遠い世界の事件にも興味はない。それは泉とも共通する意見のはずだ。
 テレビをつけたのは、紗弥が出演したコマーシャルを見るためだろう。時計の針が示す時刻は午後三時。この時間は、たしかニュース番組の間に放送されるのだったろうか。
「凝った作りをしているから、話題になるのは当然だけど。あなた自身に関する注目も高いみたいで。問いあわせが後を絶たないらしいわ。それを聞いて、あの方も満足されているそうよ」
「本当? ……良かった」
 あの方が喜んでくださるのなら、苦手なカメラの前に立った甲斐もある。面はゆさを感じながらも、安堵に胸を撫でおろしてしまう。
 だけど、と思い直して紗弥は唇を噛みしめた。
 あの日以来ハープが弾けなくなった紗弥は、マンションに閉じこもってばかりいた。そんな状態を見かねたのだろう。紗弥はあの方の屋敷に呼ばれて、モデルとして働くことを指示されたのだ。
 長く続けさせるつもりはない。華やかな世界に身をおけば、少しは気が紛れるだろう。
 直接告げられたその言葉に、紗弥はただ頭を垂れることしかできなかった。すべては紗弥の療養のために、用意された舞台なのだ。そうでなければ新人モデルが、いきなり世界的に知られた会社のコマーシャルに出演できるわけがない。
 あの方に目をかけていただけるのは誇らしいことだ。しかし本当に望まれているのは、ハープ奏者としての自分なのだと知っている。
「はじまるわよ、香久夜」
 泉に促されるまま、テレビへと視線をむける。
 大型の液晶画面に映しだされていたのは、暗黒の闇を照らす上弦の月。ハープが奏でる澄んだ旋律とともに画像が流れて、砂漠のただなかに築かれた建造物が現れる。階段状に石を積みあげたそれは、バビロンの空中庭園をイメージしたのだと聞かされた。さまざまな植物が茂る庭園だが、特に目につくのは黄色い小花だ。暗い画面にあって、花自身が発光しているかのように浮かびあがって見える。
 花たちに囲まれて立っているのは、小型のハープを手に持つ一人の女。古代ギリシアを連想させる衣装を纏っているのは紗弥である。
 しかし幻想的な舞台のなか、月の光に照らされているのは人間の女ではなく、女神なのだ。銀の戦車で夜空を駈け、狩猟を好むギリシアの女神はアルテミスだったろうか。
 演出とはいえ、気高い女神のイメージは自分にはそぐわない。
 無意識のうちにテレビから顔を背けていた。そんな紗弥の視界を横切っていったのは、一羽の鳩。その鳴き声は、まるで自分をあざ笑っているようだと紗弥は思った。

 通い慣れた駅の改札を抜けると、我知らず肩の力が抜けた。滅多にない外勤を終えて、緊張が解けたのだろう。そう思うと同時に息苦しさを覚えてしまい、神庭旭春は苦笑をもらした。
 造船関連の会社に就職して、すでに二年目の秋を迎えている。だというのにスーツを着ただけで肩が凝ってしまうのは、社会人としてはみっともない話だ。カジュアルな服装が許されている職場は気楽だが、外勤のたびに仕事以外のことで疲れてしまうのでは少々情けない。
 そんなことを考えながら、階段をくだる。だが息苦しさには耐えきれず、旭春はネクタイを緩めた。
 気道を確保すると、ようやく新鮮な空気にありつけたような気分になる。両手を広げて、思うさま息を吸いこみたい誘惑にかられるが、人目の多さを考えて自重した。だがそんな感情を読まれたのだろう。
「こんなところで、ラジオ体操でもはじめるつもりか? みっともない」
 背後から響いてきたのは笛吹義匡の声だ。
 今日の出先は、共同研究を行っている造船会社。旭春の会社では、義匡が中心となって進めているプロジェクトだ。旭春など会議についていってもなんの役にも立たないが、経験を積ませるべきだと義匡が主張してくれたのだ。
 おなじ電車に乗っていた義匡と別れたのは改札を出る少し前。売店で煙草を購入しただけだろうから、別れていたのは一、二分だろうか。
 会議中の義匡は理路整然と主張を述べ、有能な研究者を演じていた。だが旭春と離れた短い時間に、その仮面を脱ぎ捨ててしまったらしい。欠伸をかみ殺しながら旭春の横に現れた義匡は、すでにネクタイをしていなかった。
「くだらない会議だったな。決定事項の確認なんぞ、メールで十分だ。頭の固い爺さんたちがいつまでものさばっているから、効率があがらないんだ」
 毒づきながらも煙草をくわえて、ライターを灯す。駅の周辺は禁煙が義務づけられていたはずだが、指摘しても無視されるに決まっている。それに社内でも指折りのヘビースモーカーである義匡が、外勤中は一度も煙草を吸わなかったのだ。我慢の限界を超えたのだろうと、旭春は肩をすくめた。
「だけど何も問題がなくて良かったじゃないですか。明後日の本会議も、今日みたいにあっさり終わるといいんですけどね」
 旭春たちの会社は、駅から徒歩十五分の場所にある。バスの停留所も近くにあるのだが、本数が少ないため歩いてしまったほうが早く会社に着けるのだ。
 駅前のバス停を当然のように通りすぎようとして、車道のむかいに建つビルに視線を引きつけられた。
 その壁面に大型の液晶ビジョンが取りつけられたのは先週。存在に慣れていないせいか、通るたびに画面に目をむけてしまうのだ。
 いま映しだされているのは、半月の光に照らされる女性の横顔。日本人のようだが闇をみつめる視線は鋭くて、他者を寄せつけない雰囲気を醸しだしている。一度見たら忘れられなくほど印象的な美貌の持ち主である。
「あのCM、ずいぶん金がかかっているらしい」
 旭春の視線を追ったのだろう。義匡は冷ややかに肩をすくめている。
「実際の月齢にあわせて、月の形が毎日変わっていくそうだ。放送がはじまった先週末から、あちこちで話題になっている」
 だとするなら、今夜は上弦の月が夜空に輝くということか。
「凝ったことをしますね。だけどなんのコマーシャルなんですか? 『セミラミス』って会社名も、聞いた覚えがないんですけど」
 画面に映しだされるのは古代の神殿のような場所にいる女性と月、そして会社名だけなのだ。美しい映像で人の注目を集めても、商品を出さなくては宣伝の意味がないだろうと旭春は首をかしげる。
「フランスの香水会社だよ。確かに、おまえには縁がない品だろうけどな。有名なブランドだから、名前ぐらいは覚えておけ」
 旭春の無知を嘆くように、紫煙を吐く。
「それに注目を浴びているのは月の映像だけじゃない。謎の女神さまについて、やっかみまじりの憶測が飛び交っているんだ」
 コマーシャルに出演している女性の名前は香久夜。事務所に所属したばかりの新人モデルで、これが初仕事なのだという。だが公表された情報はそれだけなのだ。
 本名も過去の経歴も一切明かされず、マスコミが取材を申しこんでも、すべて断られてしまうのだという。コマーシャルではオリエントやギリシアの月の女神をイメージしているのだろうが、その芸名のせいで、『現代のかぐや姫』と評されているのだ。
 話しながら歩いているうちに、液晶ビジョンの前を通りすぎていた。住所は東京とはいえ、ここは都心まで電車で一時間もかかる街だ。栄えているのは駅周辺の狭い地域のみ。そこから少しでも離れれば、景色は住宅街のそれへと一変する。
「だけど本当に今回が初仕事なんですかね。どこかで見た覚えがあるんですけど……」
 女神に扮した香久夜は、一度としてカメラに視線を投げない。形のよい唇もきつく閉ざされたままで、その口元に笑みがうかぶこともないのだ。気高さに満ちた姿は演出かもしれない。だが他者と視線をあわせることを拒否しているような横顔を、旭春は以前にも眺めたことがあるはずだった。
 ……あれは、いつの出来事だったろうか。
 まだ青々とした葉を茂らせる銀杏の並木道を歩きながら、旭春は己の記憶をまさぐった。間近で響く鳥の羽音を聞きつけたのはそのときだ。
 音につられて視線を投げる。そして旭春が見たのは、義匡の右肩に止まる白い鳥の姿だ。
「なんだよ、図々しい」
 不愉快げなつぶやきとともに、義匡は手で鳥を払い除けてしまう。鳥は驚いたように羽を広げて、宙へ逃れた。だが旭春たちの頭上を旋回する鳥の姿が、それ以上遠ざかっていく気配はない。
 ためしに人差し指を止まり木に見立てて、鳥の前へと差しだしてみる。無視されると分かったうえでの行動だった。しかし予想を裏切って、鳥は旭春の呼びかけに応じてみせたのだ。
「これ、鳩ですかね。ずいぶん人に慣れているみたいですけど」
 喉を鳴らすような声は鳩のそれによく似ていた。だが街でよく見かける鳩よりも小型で、真白な姿は愛らしくもある。
「銀鳩だよ。マジックの小道具に使われる品種だ。観賞用に飼っている人間もいるらしいけどな」
 改良種であるシラコバトの性格はおとなしく、初心者にも飼いやすい鳥なのだという。
「つまりこいつにも、飼い主がいるっていうことですよね。……困ったな」
 鳩を誘ったのは旭春自身。呼んでおきながら、すぐに手をおろしてしまうのは鳩に申しわけないような気がした。それに鳩を探しているだろう飼い主のことを思うと、このまま空に放してしまっていいものかと悩んでしまう。
「放っておけ。それだけ人懐こい奴なら、すぐにおまえの代わりをみつけるだろうよ」
 冷ややかなつぶやきとともに、義匡は投げ捨てた煙草を靴底で踏みつぶした。
 旭春の返事を待たずに背中をむけて、義匡は歩きだしてしまう。だが旭春が聞きつけた足音は義匡のそれではない。レンガに似せたブロック舗装の歩道に響いているのはヒールの音だ。
 小走りに近づいてくる足音につられて背後をみやる。旭春の視線に映ったのは髪の長い女性だった。
「すみません。わたしが飼っている鳥です」
 いつから鳩を探していたのか、息を切らしながら告げる女性の額にはうっすらと汗がにじんでいた。突然駆け寄ってきた女性を見ても、鳩は驚くそぶりも見せず、のんきに羽をつくろっている。それはつまり、鳩にとっても馴染みのある女性だということなのだろう。
 そう判断して、女性の前に鳩を差しだす。両手で鳩の体を包みこむと、ようやく女性の表情がほころんだ。
「ありがとうございます。気がついたときには、部屋からいなくなっていて……」
 頭をさげながらも、女性の視線は鳩から動かない。外に出ている間に怪我をしていないか、たしかめているようだった。
 だが旭春は、鳩をみつめる女性の顔から目を放すことができなかった。女性はジーンズ姿で、化粧もしていない。だが整った顔だちは、十分に人目を引きつける。
「……前職がマジシャンだったとは驚きだ」
 短い口笛を吹いてみせたのは義匡だ。そう。鳩の持ち主は、液晶ビジョンで見たばかりの女性。経歴不明のモデル、香久夜なのだ。
 気づかれたと察した女性の顔に緊張が走る。顔をあげようとしないのは、旭春たちの質問を拒むためかもしれない。
「あの、本当にありがとうございました」
 早口で告げて、逃げだすように踵をかえす。
「加賀見さん、ですよね?」
 しかし旭春の呼びかけが、彼女の足を止めていた。
「加賀見……紗弥さんでしたよね。ハープ奏者の」
 自分の記憶に間違いはないはずだ。確信を持っての問いかけに、堪えきれなくなったように紗弥がふりむく。その目が驚きに見開かれていた。
「どうして、わたしのことを……」
「俺が通っていた大学で、あなたは有名だったんですよ。隣の音大に、すごい美人がいるってね」
 旭春は工学部の学生だったから、まわりに女性の姿は少なかった。そのせいだろう。他の学部や近隣の大学で、目立つ女性のことはよく話題にあがっていた。
 はじめて紗弥の噂を耳にしたのは、大学に入って間もない頃だったろうか。旭春より二学年上の紗弥はすでに知られた存在だったのだ。
「ごめんなさい。わたし、あなたのこと覚えていないのだけど」
「俺が一方的に知っていただけです。駅で何度かみかけたことがあるぐらいで、話をしたこともありませんから」
 紗弥が旭春を知らないのは当然なのだ。だが自分の知らないところで、自分のことが噂になっていたと聞かされても気味が悪いだけだろう。安易に声をかけるべきではなかったと旭春は後悔した。
 謝罪するように頭をさげて、そのまま紗弥から離れるつもりだった。
「そういえば、CMに流れていたのはハープの独奏だったな。あれも君の演奏なのか?」
 だが義匡は物珍しそうな視線を紗弥にむけたまま動かない。
「ダメですよ、彼女は謎のモデルなんですから」
 自分のせいで、紗弥の経歴が明かされたのでは申しわけが立たない。慌てて義匡を促すが、旭春の行為は平然と無視された。紗弥は戸惑ったような表情をうかべて、男たちの顔を見比べている。その目が、何かを告げたがっていた。しかし。
「その質問にはお答えできません」
 氷のように冷たく響く声は、紗弥の背後から聞こえてきた。いつの間に近づいてきていたのか、紗弥の背後にはパンツスーツ姿の女性が立っていたのだ。潔いほどに短い髪が中性的な雰囲気を漂わせている。だが紗弥に劣らぬ美貌の主だ。
「他の質問には、私がお答えします。といっても、お答えできることはかぎられていますが」
 つまりは、聞くだけ無駄だということか。
「違うわ、泉。この人たちは、鳩をつかまえてくれただけなのよ」
 泉というのが、女の名前なのだろう。慇懃無礼な態度をたしなめられても、泉の表情に変化はない。
「それなら、これ以上関わる必要もない、ということね」
 紗弥の言葉を切り捨てて、泉はちろりと旭春を見た。刺すような視線に、旭春は我知らず息を飲んでしまう。だが射抜かれていたのは一瞬だった。
 儀礼的に頭をさげた泉は、それで用が済んだと判断したのだろう。紗弥を促して、歩きだしてしまう。
「かわいげのない女だな」
 遠ざかる泉の後ろ姿に辛辣な言葉を投げつけたのは義匡だ。
「笛吹さん! 聞こえますよ」
「聞こえるように言ったんだ。見ろ、俺たちの言葉なんぞ、耳に入れるつもりもないらしい」
 義匡の声は届いているだろうに、泉がふり返る気配はない。短い舌打ちをもらした義匡も、泉に背をむけて歩きだしてしまう。
 つられて足を動かしながらも、旭春が思い浮かべたのは紗弥の視線。泉に会話を遮られる前に、彼女は何事かを旭春に告げようとしていた。
 あのとき、紗弥は何を言おうとしていたのか。
 視線を感じて、背後をみやる。だが旭春が見たのは、逃げるように顔をそらした紗弥の後ろ姿だけ。
「何をやっているんだ、置いていくぞ」
 不機嫌そうな声に急かされて、旭春は慌てて義匡の後を追いかけた。
椎名貴乃 * 新刊・既刊案内 * 00:29 * comments(0) * -

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