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イリスの柩

iris

カンタレラの優れた特徴は、
毒を盛ってから死ぬまでの期間を自在に操れる点にあります。

旭春の周囲で起きた殺人事件。
様々な毒によって殺された被害者の傍には
決まってアイリスの花が添えられていた。
毒草園にあらわれた孔雀、不審な態度の蓮、佐伯が語る毒殺の歴史。
たてつづけに起きる事件とは無関係に見えたそれらも、
やがて複雑に絡みあいはじめていく。
そして、ついに旭春も毒に斃れ……
「猫と琥珀と毒草園」シリーズ第四弾。読み切り。

B6サイズ/112ページ/インクジェット印刷/500円
第2版 B6サイズ/112ページ/オンデマンド印刷/500円

<続きは本文の冒頭および抜粋です>


 罵声にも似たクラクションに襲われて、徳永光里は我に返った。自転車のブレーキバーを握りしめながら、サドルから飛び降りる。
 足をつけたそこは、交差点に白く描かれた横断歩道の上。目の前には小型のトラックが停止していて、窓から顔を出した運転手が光里にむかって叫び声をあげている。
 どうやら信号を無視して交差点に入ってしまったらしい。そう気づいて光里は息を飲みこんだ。
 慌てて運転手に頭をさげて、歩道へと引き返す。
 光里が吐息をもらしたのは、トラックの姿が見えなくなってからのこと。いつの間にか信号が変わっていたが、すぐに自転車で走りだす気にはなれない。そして、ひどく喉が乾いていた。
 光里がいる歩道は緑に囲まれた公園に接している。ふりむいた光里の視線が捕らえたのは、入り口近くに設置された飲料水の自動販売機だ。
 その脇に自転車を止めて、鞄から財布を取りだす。気が急いているのか、指が思うように動かない。硬貨をつかんで、自動販売機に投入する。単純な動作さえ、強く意識しないと体が動かない。
 ダミーボトルを照らすあかりがまぶしくて、自動販売機の前に立っていることも苦痛だった。だがそれ以上に、体が水分を欲している。
 緑茶のボトルが取出口に落ちてきたときは、安堵から吐息がもれた。光里はボトルをつかみあげると、近くのベンチに腰を降ろした。交差点を走り抜ける車を眺めながら、ゆっくりとボトルを口に運ぶ。
 時刻はすでに午後十一時を過ぎている。駅から歩いて二十分はかかる場所だから、横断歩道を渡る人の姿は見当たらない。しかし光里にとっては学生時代から通い慣れた道である。人気がなく、暗い場所に不安を覚えたわけではない。
 吹きつけた風に、公園の木々が枝をしならせる。悲鳴にも似たざわめきが鼓膜に響いても、肌に風を感じることができない。両手で握るペットボトルの感触すら、いつの間にか失っていた。
 ……なにかが、変だ。
 体の異変に不安を覚えて、光里は静かに息を飲む。助けを呼ぼうにも、体がまるで動かない。
 アルバイト先のスポーツジムを出たのは、いまから三十分ほど前のこと。エアロビクスのインストラクターを二本続けて受け持ったが、体に疲れを残してはいなかったはずだ。
 車道を眺めていた視線が、知らぬ間に足元へと落ちていた。そこに小さな白い物体が転がってゆく。円形のそれは、光里が手に握っていたペットボトルのキャップだった。回転しながら遠ざかるキャップは、しかし白いハイヒールに進路を阻まれた。
「こんなところに居たの」
 軽やかな声とともに、靴音が近づいてくる。
「一緒に帰るつもりでいたのに、すぐに行ってしまうから。追いつけなかったら、どうしようかと思っていたのよ?」
 親しげに話しかける女性を見上げることはできない。だがその声には覚えがあった。光里が勤めるスポーツジムの会員だ。今日もジムに来ていて、帰り際に呼び止められた。そして馴染みのない味の飲み物を渡されたのだ。
 ……とても珍しい薬草茶が手に入ったの。量が少ないから、みんなには内緒だけれど。光里さんには、特別に飲ませてあげる。
 ジムの裏手にある駐輪場。その片隅に光里を呼びよせて、彼女はそう告げたのだ。そしてステンレスボトルから注いだ冷茶を渡された。
 お世辞にも美味しいとは思えない味だったが、無難な感想と笑みを返して、彼女と別れた。喉の渇きを覚えたのは、その後からだ。
 自分は一体、彼女になにを飲まされたのか。
 ……あのときはたしか、人参のエキスを濃縮したものだと言っていたはずだ。
 高麗人参は百薬の長とも呼ばれ、日本でも古くから知られる漢方薬だ。子供の頃に見ていた時代劇でも、ひどく高価な薬としてその名が出てきたことを覚えている。
「あなたが飲んだのは、高麗人参ではないわ。むろん食用人参でもない。人の背丈よりも高く伸びるセリ科の植物でね、茎には赤い斑点があるの。その斑点が、なんて呼ばれているか知っている? 『ソクラテスの血』と言うのよ」
 古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、不敬神の罪で死刑を宣告された。毒の杯を自ら煽り、死に至る経過はプラトンがその著作に詳しく書き記している。
「毒を飲んだソクラテスは、足が重くなるまで室内を歩きまわってからベッドに横たわった。毒を運んだ執行人は、その手足の感覚が徐々に失われていくのを確認しながら、ソクラテスにこう告げたそうよ。全身の感覚が失われて、毒が心臓に達したときに、あなたは死ぬ。……ねえ? いま私があなたに触れたら、あなたにはそれが分かるかしら?」
 笑みを含んだ冷たい声が鼓膜に響く。まるで別人のような口調だった。だが光里には理解できた。いまの姿こそが、彼女の本性なのだ。ジムで見知った彼女の姿は、彼女の演技に過ぎなかったのだ。
「あなたに渡したのは、ソクラテスが飲んだ毒ニンジンよ。毒の成分はコニインというの。吐き気や口渇の後に麻痺や痙攣を起こし、やがては呼吸障害に陥って死をもたらすアルカロイドの一種。採りたてのものでないと効き目が落ちるから、取りよせるのに苦労したわ。それに薬の調合にも。コニインには神経を興奮させる作用もあるから、毒ニンジンだけでは、ソクラテスのように穏やかな死に方はできないの。あなたに飲んでもらったのは、私なりにアレンジしたものよ。本当は死の直前まで会話できるはずだったけれど、もう話せないみたいね。それに少し呼吸が荒い」
 体は酸素を求めているのに、息をするのも難しい。だがその苦しさを顔にうかべることさえできなかった。徐々に視界がかすんでいくのは毒のせいか、それとも息苦しさのせいなのか。光里には判断がつかない。そしてその元凶さえも、分からない。
 スポーツジムのインストラクターである自分と、その会員である彼女。それ以外の接点はなく、彼女の恨みを買う理由はない。だというのに、なぜ自分に毒などを飲ませたのか。
「可哀相だとは思っているのよ? なんの落ち度もなく、将来のあるあなたの命を摘み取ってしまうなんて。だけど運がなかったわね。あなたの死は、私にとって有益なのよ。だから、ごめんなさい」
 白々しい謝罪の言葉とともに、目前に差しだされたのは一輪の花。鮮やかな紫色の花びらが上下に広がる独特な形には見覚えがあった。
「アイリスよ。これは、あなたを冥界へと導く花」
 告げる女の声は、ひどく遠いところから響いてくる。鼓膜の裏で騒がしいほどに鳴っている鼓動も、いまでは弱々しい音がときおり響いてくるだけだ。
 そして、それすらも途絶えてしまった。
 静寂のなかに光里はいた。
 あたりは真白な深い闇。重力は感じられず、地面の感触すらもない。だがこの闇の先に、行くべき場所がある。
 肉体を脱ぎ捨てた光里は、アイリス一輪だけを携えて、冥界へと旅立った。


2
 九月。日中のひざしは真夏のそれにも似ているが、虫たちの声が響く夜の風は涼やかだ。ふたたび朝を迎えても、湿度を含まない空気は心地が良い。
 澄んだ青空の元、神庭旭春は自室のあるアパートの階段を降っていた。欠伸をもらしながら、その敷地を出る。
 睡眠は十分に取ったはずだが、体にだるさが残っている。おそらく夏の疲れが出たのだろう。そんなことを考えながらも、駅にむかって歩きだす。
 アパートの隣には佐伯毒草園の古びた木塀が続いている。そして瓦葺きの屋根を持つ腕木門に掲げられた看板には、「人体に有害につき立入禁」という注意書きがつけ足されているのだ。
 その文字を眺めながら毒草園を通りすぎるのが、いつしか習慣になっていた。だが腕木門にさしかかる前に、旭春の足は止まっていた。その自覚がないまま門の屋根を凝視する。
 旭春がアパートに入居したのは今年の春。以来、毎日のように通る場所である。門の形はよく覚えていた。だというのに、昨日までなかったはずのものが屋根に乗っていたのだ。
 それは純和風の門の造りに似合わぬ風見鶏。
 否。鶏ではない。
 朝日を浴びて艶やかに輝く青藍色の体。目玉模様の入った飾り羽を、これみよがしに広げているのは孔雀だった。しかも生きている。
 食い入るような視線を感じたのだろう。ちらりと、孔雀が旭春を見た。人に慣れているのか、驚くそぶりさえ見せない。孔雀は旭春をみつめたまま、優雅に飾り羽を閉ざしてゆく。そして体のむきを変えて、屋根から飛び降りてしまう。
 その姿が毒草園の内側に消えても、旭春は動けない。白昼夢でも見ていたのかと、まばたきをくり返す。しかし木戸の奥からは、茂みをかき分けるような音が響いてきている。
 世の中には、変わったペットを飼うことを楽しみとする人間がいる。それに孔雀は、流通が禁止されている動物ではない。つまり一個人が飼育することもあり得る鳥だということだ。
 そしてここは毒草園なのだ。園内で育てられている毒草に比べれば、孔雀が人に与える害など、害のうちにも入らないだろう。
 呆然と立ちつくしている間にも、時間は無情に過ぎていく。隣家に孔雀がいたから、という理由で会社に遅刻するわけにもいかない。旭春が取るべき行動はただひとつ。
「……忘れよう」
 自分自身にむけてつぶやくと、旭春は足早に毒草園の前を通りすぎた。

<中略>

「まさかここにも毒ニンジンがあるんですか?」
「ここは毒草園なんだよ? 名前に毒がつく植物がない方が変だと思うけど」
「それは、そうだけど」
 では女性の命を奪った毒草は、この畑で栽培されたものだというのだろうか。
 不安な想像を拭いきれないまま、旭春は闇に沈む畑を見た。ついでその表情のまま七生をみやる。
「生命力の強い植物ですからね。近くの川の堤防で生えているのを見かけたことがありますよ。もちろん、栽培もしています。ご入り用ならいつでもお分けいたします」
 営業職のそれを思わせる口調で告げて、七生は人の良さそうな表情をうかべてみせる。
「とはいえ毒ニンジンは新鮮なものでなければ毒性が弱まりますし、臭いもある。嘘のつけないあなたには不向きな毒です」
「……俺に殺したい相手がいると、本気で思っているんですか?」
「あなたが毒を必要とするときは、選りすぐりの品をお渡しいたしましょう。もちろん相手の死後、体内から毒が検出されないものを、です。私の顧客は、毒ニンジンで殺人を行ったりはしないですよ」
 つまり殺人に使われた毒ニンジンは、この毒草園で栽培したものではないのだろう。遠回りすぎる説明に、旭春は疲労さえ覚えてしまう。
「迷惑な話だよね。このあたりで毒草なんて使われたら、ウチを連想する人も少なくないし。犯人の手がかりは、なにもみつかっていないみたいだし」
「遺体には、アイリスが供えてあったそうだよ」
 脳裏をよぎったのは、会社で野枝から聞いた話だ。
「造花? アイリスなんて、この時期に咲く花じゃないよ」
「そこまでは聞いていないけど」
 問われて、旭春は肩をすくめた。アイリスという花の名前に聞き覚えはある。だがその形をはっきりと思いだすこともできないのだ。
「アヤメの仲間ですよ。形もよく似ています。特に有名なのはジャーマンアイリスですかね。色が豊富で、『虹の花』とも呼ばれているんです。フランス王家の紋章にもなった花ですよ。五月にウチの庭でも咲いていましたが」
 七生の説明は、声に出さなかった旭春の疑問に対するものだろう。だが素直に頷くことはできなかった。毒草園で咲いていたということは、ある特徴を備えているからではないのか。
「もちろん毒を持っています。樹液に触れただけで皮膚炎を起こしますし、アイリスを食べた家畜が大量出血で死ぬ事故も起きています。そういえばイスラム教徒は、墓に白いアイリスを植えるそうです。これも花の毒性を知っていたからでしょうかね」
 同意を求められても、返事のしようがない。何気なさを装いながら、旭春は膝に乗せた琥珀へと視線を流してしまう。
 しかし眠っていたはずの猫はいつの間にか目を覚ましおり、じっと旭春をみつめている。
 蛍光灯に照らされた室内。だというのに、琥珀の双眼にあるのは冷たい金属の輝きだ。
「だから神庭さんが考えているより、毒を持っている植物は多いんだ。たとえ植物じゃなくてもね。いろいろなものに毒が潜んでいることに、神庭さんが気づいていないだけなんだよ」
 ませた口調でそう告げる蓮は、どこか見下したような表情を旭春にむけていた。琥珀のそれとも共通する、冷ややかな視線。
 ……それほど呑気に生きているつもりはないんだけど。
 そんな言葉を飲みこんで、旭春は肩を落とした。
椎名貴乃 * 新刊・既刊案内 * 03:47 * comments(0) * -

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